日頃ふと湧き出した思いや降りてきた言葉は時々Twitterで綴っています。
(幸恵のTwitter・シャンティハウス公式Twitter)
昨日また思うところがあってツイートしたのですが、そのことを少しここで深く書きたいと思います。
家族ぐるみで仲良くさせていただいている優大と同じ病気の女の子がお空に旅立ったというお知らせを先週もらいました。昨日、お家から出棺する前の日にお別れに伺うことができました。
みいちゃんと呼ばせてもらっているその女の子は、優大と同じで生まれつき大脳が無く重度の障がいがあるのですが、クリクリの可愛いお目目で家族を照らすアイドルのような存在です。ご両親はもちろんお兄ちゃんもとても妹さんを可愛がって、大切に大切に育ててこられました。
みいちゃんは頑張り屋さんで何度も危機を乗り越えながら6歳になりました。亡くなるまでの入院の日々も心臓が止まってもまた息を吹き返し、何度もご家族のもとにいることを選んでくれたそうです。
優大が亡くなる時にも、残されるわたしたち家族に最適な環境と時間を用意してくれたように思いましたが、みいちゃんもご家族が十分にそばに寄り添い、もちろん永遠にこなければいいと思いつつも、、いつか来るお別れの覚悟をほんの少しさせてくれる時間でもあったと思います。
お別れをして自宅に帰りながら、特にこの2年ほどの世間の騒動の中でずっと感じていたことが、頭の中に浮かんでいました。
それは、わたしの中での死というものの意味です。果たして人は死なないために生きているのだろうか?死ぬことは不幸で敗北なのだろうか?もしかして、いのちを守ろうとするあまり、二度とはない今日の日の隅々に散りばめられている小さな幸せや優しさや、わたしたちがもともともっている生命自体の力やその素晴らしいきらめきを感じることを忘れてしまうのではないか?と。
もちろん誰も死にたくはないし、病気にもなりたくない、大切な人に永遠に会えなくなるのも嫌だし、死んで欲しくはない。それはわたしもそうなのです。
でも、生まれてきた、ということは必ず死という生の締めくくりの日がやってきて、むしろそれだけがわたしたちの人生で唯一の確かな未来ともいえます。
それを自分のいのちをもって示し教えてくれたのが、生まれてすぐに明日のいのちも確かではなくいつ風邪で死んでも不思議はないと言われた優大でした。
どのいのちも掛け替えのない生をこの世界に素晴らしい贈り物として与えてくれています。
人生というものはその長さはもちろん、成功や功績や何かを成したかにまったく関係なく、等しく同じ価値がある。不自由な身体で精一杯いのちを輝かせて生きた優大の人生の最後の締めくくりであったその死もまた、わたしたちにとっては本当に尊い贈り物でした。
そしてそれは、いのちあるわたしたちすべてにおいても同じなのではないか、と思うのです。
二度とはない、いまこの時。
誰も確実な未来を知ることはできないし、様々な制約や恐怖はいつの世にもなくなることはないのかもしれないけれど、わたしたちは自分の心の奥の望みや希望に光を当て、本当に大切なものも大切にし、自分のいのちを悔いなく生きることができます。
いのちはいつか必ず終わるけれども、入学できたから卒業できるのと同じで、死は生まれて来られた証とも言える。死は敗北なんかじゃない。
だから、今日と言う日をどう生きるか?明日をどう生きていきたいか?をよく感じて生きることがとても大切だし、そうしていれば同時にどう死にたいか?が自ずと見えてくるのだと思います。
とはいえ、真面目に立派に生きなければということはまったくなくて、むしろその逆かもしれなくて、笑、ただ心の望むままに、会いたい人に会い、大切な人の顔を見て笑い合う、リラックスして美しい空を見上げる、1日に感謝して穏やかに眠りにつく、そんな風に喜びを感じて生きることをわたしは選んでいるし、これからもそうするつもりです。
みいちゃん先生、優大先生、教えてくれてありがとう。生まれてきてくれてありがとう。