2006年の春、三年間通った通園施設を卒園し、優大は特別支援学校に入学した。
優大が小学生になるなんて、私にとっては夢のようなことだ。
毎日を無事に過ごすことを積み重ねて必死にやってきたこれまでの日々を振り返ると、心の底から喜びが込み上げてくる。
明日の命もわからないと言われた優大が無事に小学校に入学する。
私にとっては、大きな金色のメダルをもらったように、とっておきのプレゼントに思える。
入学式の日、優大はいつものように緊張から逃避寝をしてしまい最後まで起きなかったのだが、それがまたかわいかった。
私も次男の母乳育児の真っ最中で、タイミング悪く乳腺炎になってしまい高熱を薬で何とか押さえての出席となったが、嬉しさはひとしおだった。
喜びいっぱいに迎えた入学からすぐに、私は少し苦労することになった。
優大には医療的ケアと言って、痰の吸引や経管栄養などのお世話が必要なため、当分の間は母親が付き添っての登校が決まりだという。
この付き添いは、最初は教室の中で授業の邪魔にならないようにじっと待機していなければならず、気疲れでなかなか大変だった。
障がいのある子が通う学校なのに、障がいが重いほど親の責任は重く、教室から出られるようになってもなかなか学校の外に出ることを許されなかった。
「教育機関である学校と福祉の施設であった園との違いですから、お母さんが頑張って下さい」と言われたのには複雑な心境だった。
そもそも登校させるために寝たきりの子どもを支度させるのは本当に大変なことだった。
夜ほとんど寝られていなくても朝5時くらいからオムツ替え、吸入、吸引、経管栄養、投薬、着替えと様々な世話をこなし、眠い目を何とか開けて運転しやっと行くことが出来るので、登校させるだけでも私は必死だった。
もちろんスクールバスも乗車は許されなかった。
優大のためと思えば頑張れたが、他のお母さん方は早々に離れスクールバスで登校してくる子どもたちを横目にみていると、しばらくは待機することが苦痛だった。
そのうちに、同じ様に障がいの重いお子さんを持つ先輩お母さん方と出会うことで、少しずつ私も小学校生活に馴染むことができた。
優大はというと、最初は内弁慶を発揮して、どうしても起きていられないことが多かったが、日に日に目を覚まして授業を楽しむようになっていった。
同級生の皆の声を聞いてキョロキョロと目を動かしてはクラスの様子を感じ考えている様子はとてもかわいくて、私もつい笑顔になる。
特別支援学校の先生方は園の先生と同様に皆とてもパワフルで、子どもたちへの愛情に溢れている。
授業も様々に工夫されていて、どんな子も五感を通して学べ、楽しむことができた。
優大が学校が大好きになっていくのも当然だった。
今まで見せたことのない様な顔いっぱいの笑顔を見せて笑う優大。
新しく経験する様々なできごとにワクワク、ドキドキしている様子も表情豊かに伝えてくれ先生方も驚くほどだった。
低学年の間は、今までも苦手だった運動会や文化祭などの行ことになると、緊張してしまい目を開けているのが難しかった。
「うんどうかい、たいいくかん」などという言葉を聞いただけで泣きそうになってしまうこともしばしばだったが、言葉の理解がしっかりと出来ていることがわかり、いつも感心して見守っていた。
ときおり体調を崩して入院すると長く欠席しなければいけなかったが、元気な時には優大の体力にはちょうど良い週に二、三回のペースで登校し、順調に二年生へと進級した。
この頃、次男が生まれてからの夫の協力はとても有り難かった。
夜中の授乳が続く中、体力的にも消耗してしまう時期だったが、一日交代で夜間の優大のお世話をしてくれた。
寝返りの打てない優大の体位交換は二、三時間おきくらいに。
痰が溜まれば吸引をし、呼吸が苦しくなってくれば吸入をかけて胸をマッサージする。
成長に伴って増えて来たケアは昼夜関係なく続く。
入学してから次第に生活のペースが整っていき、夜に寝る時間も増えて成長をみせてくれた優大だったが、一度体調を崩せば、殆ど寝ずにケアすることも珍しくなかった。
夫との二人三脚での介護生活は欠かせないものとなった。
それと同時に、福祉の制度を利用して、ヘルパーや訪問看護をお願いすることになった。
専業主婦である私がいながら、援助サービスを利用することには躊躇があった。
あんなに限界まで苦しんだのに、私はまだ、助けを求めることはさぼっているかのように思われるのではないか、と感じていた。
そんな私に夫が言った。
「家族みんなが幸せでいることが大事だよ。あなただけが頑張るのはよくない。」と。
この言葉に後押しされて、ヘルパーさん訪問看護師さんには大変お世話になった。
ヘルパーさんには、私が日中は優大の介護に集中してあたれる様に、掃除や洗濯干しを代わりにやってもらい、何度もぎっくり腰になっている原因の一つでもある、抱っこで車いすに移動させることもやってもらったりした。
そのお陰で、介護疲れで家事ができないことへのストレスも減り、頑張り過ぎて限界の状態になるのを予防することができた。
それから、優大との生活で欠かすことができないのが訪問看護師さんの存在だ。
体調が安定していれば学校に行き、学年が上がると私も離れることができるようになったが、それでも学校からの呼び出しがあったりで、なかなか自分の時間がもてることは少なかった。
週に二回の訪問看護の時間だけは、唯一安心して優大から離れることができる。
少し近所に出て買い物をしたり、次男を病院に連れて行ったり、物理的にも精神的にもゆとりが持てた。
何より、優大のことを愛情深く見守り、ケアし、共に成長を喜び、親のように心を傾けて育てて頂いたことは本当に大きな支えとなった。
優大が育っていく上で、そして私が優大とともに生きる上で、訪問看護師さんという存在以上の大切な人生のパートナーでもあった。
こうして我が家の生活は優大を中心にして、家族4人と、大好きな学校、何かあるといつも助けてくれる両方の両親、ヘルパーさんと看護師さんとの協力でチームのようなかたちができてきた。
様々な困難、孤独な育児、心の重しとなる失うことの恐怖、そんなことを乗り越えて、今、大きな幸せを感じる日々に、私は本当に感謝するばかりだった。
そんなある日、突然、優大に大きな命の危機がやって来た。
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Story1
妻編:「赤ちゃんにノウガナイ?」
夫編:「幸せな若夫婦への突然の報せ」
Story2
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妻編:「必死だった日々も。。」
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Story8
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妻編:「命の最期のしごと 後編」
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Last story
妻編:「生きて!」ママへ、そしてかけがえのないあなたへのメッセージ
夫編:「4人で5人家族、優大学校からの学び」