2年生に進級した優大は、大好きな学校に行くのを楽しみに元気に過ごしていた。

そんなある日、風邪から気管支炎を起こしいつものように救急外来を受診した。

実はこの少し前から、時折呼吸の様子がおかしく、ため息のような呼吸をすることがあり気になっていた。

肺だけの問題ではないのではないかと、医師に相談した。

シャントの周りの浮腫もあるし、ポンプが固くなることがあることに胸騒ぎがした。

だが、その時点では医師は特にそれが重要とは捉えていないようだった。

入院して治療が始まったが、通常ならばもう少し復調するのが早いはずだが、数週間経ってもなかなか回復してこなかった。

次第に、全身の力が入らない様子で手足が動かなくなり、私の方を見ることもしなく
なった。

唾液を飲み込めず口の中も麻痺しているように見えた。

私は言いようのない不安に駆られた。
もう待っていられないと、主治医に脳の検査をしてもらうよう強くお願いした。

まずは呼吸の状態を改善してから、とまた言われたが、最終的には脳外科の医師と連絡をとってもらい検査をすることになった。

脳のCT検査をすると、思っていた通り、脳圧が上がり脳幹が圧迫されている状態だった。

シャント不全といって、どこかでシャントが詰まり頭の中に髄液が大量に溜まっていることが原因だ。
緊急手術が決まった。

手術のために外科病棟に移動した直後のことだった。

ベッドの横で優大を抱っこしていると、しだいに呼吸の回数が減って来た。

すると呼吸数と血圧が急激に下がり、身体につけている血圧などを測るセンサーから大きなアラームが鳴りだした。

すぐに医師が呼ばれ、酸素を投与したと、優大の周りは騒然とした空気に包まれた。

脳圧を下げるために、シャントチューブのバルブの部分に注射針を刺して髄液を吸い出す応急処置が施され、ようやく呼吸が戻った。

私は部屋の外に出されて様子を見守るしかなかった。
呼吸が戻った瞬間、身体が震えて涙が溢れ出してきた。

入院してから1ヶ月程経っていて、なかなか回復しない状況に疲れもピークだった。

そんな時に目の前で優大の命の灯火が突然に儚く揺らぐのを見て、これ以上にない恐怖を覚えた。

この不安が、現実になってしまうのではないか、優大の命が消えかけているのではないか、そう思うと怖くて震えた。。

手術は更に急を要するということになり、その日の夕方行われることになったのだった。

手術は麻酔などを含めて2時間程で終了するとの説明を受けて、私と夫は控え室で待機していた。

これで、よくなるんだ、という希望の一方で、本当に大丈夫かと思うと、いてもたってもいられない。

じっと座っていることができずどこかにすがりたいつきたい気持ちを必死に押さえながら私はウロウロと部屋を歩いて回った。

夫は疲れて眠ってしまった。

2時間経っても3時間経っても優大が出てくる気配はなかった。

待っていることしか出来ない私の不安は時間と共に膨らんで、本当に気がおかしくなりそうだった。

するとようやく医師が現れ説明があった。

優大の腹腔内の癒着がひどく、新しいシャントの管を入れることができなかったこと、外科の医師に応援を頼み再びチャレンジすることが告げられた。

もうとにかく神様にお願いする他ない、そんな気持ちだった。

結局、手術開始から6時間程経った、夜中の12時頃、手術は無事に終了した。

トラブルはあったが成功と言えるものだという。

長い長い一日が終わった。

これで優大は大丈夫。

そう思ったのも束の間、優大へ課せられた試練はこれで終わらなかったのだ。

術後、通常通りに人工呼吸器を抜く抜管を行ったのだか、管を抜いた後、思うように自発呼吸ができないとの緊急の連絡が来た。

長く脳幹が圧迫されていたことと、手術が長引いたことも加わって優大は急激に衰弱してしまったようだった。

私達はそのまま控え室の椅子で寝泊まりし、ICUの短い面会時間を待ちわびて優大のそばに付き添った。

布団もないICUの固いベッドの上に裸で、本当に沢山の管が繋がれた優大。

私がしてやれることといったら、チューブを固定するためのテープを切ることくらいだった。

それでも、優大が生きていてそばにいられることが嬉しかった。

救急部の医師からは、何度も状況がかなり厳しいことが説明された。

その度に、私達は優大の生命力の強さをひたすら訴え続けた。

そうすることで、自分たちの崩れてしまいそうな心を必死で支えていた。

しばらく挿管せずに他の方法で呼吸を補助する試みが行われたが、全身状態が保てなくなり、再挿管となってしまった。

優大の容態がとても悪く、これ以上挿管したままでの治療はできないこと、その場合、手術で気管を切開して人工呼吸器をつながなければならないという説明をうけた。

今後について主治医との話し合い
がもたれた。

もし人工呼吸器を繋いだ場合、一旦呼吸は確保されるが、呼吸不全の原因が脳にあり、そのダメージはおそらく回復しない。

そのままさらに容態が悪化し、ICUで亡くなることも大いにある、という感じのことを理解した。

意識が戻らないまま、機械の音だけが鳴り響く部屋で、数えきれない点滴と投薬と機械に繋がれて優大が亡くなる。

短い面会時間を過ごすだけで、ずっとそばについていることもできない。

これは親のエゴだけれど、何が正しい選択かなんてわかりようもなかった。

ただ、そんな風に優大をなくすことだけは絶対にしたくないという思いだけがこだました。

それに優大はまだ死んだりしない。
根拠なんてないけれど私は強くそう思った。

夫と寝ずに話し合った結果、やはり優大の生きる力に全て託そう、そんな想いを共有した。

そして私達は気管切開の話を断り、挿管していることができないのならば抜管してもらい、ICUから一般病棟に移してもらうことを決め、医師たちに懇願した。

「優大が長生きできるとは思っていません。でも今じゃないんです。」

そんな心の叫びが言葉になって出てきた。

優大が生きたいと思い、神様がそれを許してくれるなら、優大はきっと回復してくれる、そう私達は信じた。

そして、もしもこれで最期になるならば、せめて優大のそばにずっとついていることだけは譲れない、そんな苦しい思いも交錯した。

救急部の医師にとっては、例外的な決断だったが、主治医が私達の気持ちを理解してくれたことで、優大は一般病棟に戻ってきた。

酸素を最大に投与しても状態はとても悪いものだった。

一生懸命呼吸をしようとする様子が見られたが、肺を持ちあげる力も残っていないほどの衰弱振りだった。

血中の二酸化酸素濃度が上がってしまい、全身の機能のバランスが崩れいつ心拍がとまってもおかしくない状態が続いていた。

病室から出て、道を歩いていても私の見る世界は色を失い現実でないどこかを彷徨っているかのようだった。

少しでも何か食べようと食事を口に運んでも味が全くしなかった。

もしこのまま優大が亡くなったら私も一緒に・・と本気で思った。

奇しくも優大の8歳の誕生日が迫っていた。

一日を超えることが奇跡だったから、誕生日は大きな目標にして来た日だった。

依然として優大の自発呼吸は殆ど戻らなかったが、不思議なことに、そのわずかな呼吸だけで何とか全身のバランスを保っているようだった。

そして、とうとう8歳の誕生日を迎えた。

全身が浮腫み、いつもの優大の顔ではないし、意識も殆どなかったけれど、学校の先生方が面会に来て下さり、誕生日を祝って下さった。

病棟のスタッフの皆さんも歌をうたってお祝いしてくれた。

嬉しい・・ありがたい・・けれど、状況は最悪だった。

それでも私達は泣きながら笑った。
信じることを止めたくなかった。

誕生日を迎え、その翌日も優大は小さい呼吸を続けた。

そしてその次の日も、優大は生きよう、生きようと小さな呼吸を続けた。

すると、どうだろう、少しずつだが、検査の結果に回復の兆しが現れ始めた。

呼吸も日に日に自力でできるようになってきた。

そして、優大は目を開けてしっかりと私達を見てくれた。

いつものように名前を呼ぶと「ふ~ん!」と返事をした。

奇跡が起ったのだ。

医学的にはとても信じられないことだったと思う。

優大の生きようとする力は計り知れないものだった。

優大の生命力を信じているとは言え、弱い気持ちが次々と押し寄せ正気でいることだけでもやっとだった私を、優大はどう思っていたのだろう。

「ママ、僕はまだ頑張れるよ!」
と言うかのように、優大は私達のもとへと戻って来てくれた。

その後の入院生活中にも沢山の試練が待っていた。

点滴から経管栄養で食事を摂るまでには大変な苦労がいった。

薬を大量に使った副作用で全身の皮膚がただれて、はがれたり出血した。

再度、シャントが詰まり厳しい状況が続いたこともあった。

けれど、医師達の懸命な治療と看護師の皆さんの暖かいケアのお陰で、そして何よりも優大の持つ不思議ともいえる生命力で、その一つ一つを乗り越えていったのだった。

これまでには時に医療に傷つき失望することもあったが、この時にともに寄り添って下さった全てのスタッフの方々には今でも感謝するばかりだ。

3ヶ月後、ついに優大は家に帰って来た。

ドアを開けて車椅子で玄関に入った優大は、ニコッと嬉しそうに笑った。

まだ2歳なのにバーバと一緒にずっと頑張って来た次男も、優大が帰宅しベッドに寝ると嬉しそうにベッドに登り優大に寄り添った。

助けてくれた両方の家族、祈って下さった方々、支えて下さった方々がいて、私達はここまできたことに深く深く全てに感謝する気持ちでいっぱいだ。

優大が生まれてから、命の意味を考え続けてきたけれど、この3ヶ月の間に学んだことは深く心の中に礎として刻まれた。

最愛の息子の死に直面し、恐怖で震えたからこそ、生きているということの奇跡、そして命の意味を知った。

命の輝きはどんな時であっても変わらない。

長く生きることや何かを遺すことよりも、この命を輝かせて純粋に生ききることほど大切なことはないのかもしれない。

私達は愛し、愛される、それをしに生まれてきたのだろう。

どんな日々であっても、人生は素晴らしい。

長かった闘病の末、もともとあった重度の麻痺が更に進んでしまい、手を挙げてお返事したり、足をぴーんと伸ばして喜んだりすること、飲み込むことなど、できなくなったことも多かった。

でも、優大は私達のそばにいてくれる。

それだけでもう何も他に望むことなどない。

学校に登校できたら、次は温泉!
目標が持てることが夢のようだった。

 

 

 

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