2011年3月11日、のどかな昼下がりに起きた突然の強い揺れ。

マンションが大きく左右に傾いて歪んで揺れているのがスローモーションの様にはっきりと見えた。

揺れは長く何度も押し寄せた。

立て続けに起る余震。

あの日の恐怖は、直接被災していない私にとっても言いようのないものだった。

翌日から停電になるとの情報が入った。

医療機器を使っている優大にとってはとても難しい状況になると思った。

私達はすぐに九州の私の実家に避難することを決めて、翌日にはスーツケースに荷物を詰め込んで東京の家を出た。

実家に着くと、被災地の様子が延々と放送され続ける中で、少しの後ろめたさを感じた。

東京でも水がなく生活必需品が手に入らない状況のようだった。

安全な場所へと避難した優大だったが、数日して顔色がどうにも悪い様子に胸騒ぎがした。

そういえば、震災前日に学校でしばらく顔色が悪くなって心配したことを思い出す。

風邪かなという感じだったがそれから急に呼吸の状態が悪くなってしまい、救急を受診することにした。

ひとまず検査をしながら様子を見ようということになったが、検査の結果とても重度の貧血になっていることがわかった。

輸血を要するということだった。

今までに貧血になったことはなく、何が起きているのか全くわからないなかで、嫌な予感がどんどん膨らんでいく。

呼吸の様子も顔色も何か大変なことが起きそうな気がしてならなかった。

その病院にはICUがなかったので、大きな病院へと搬送してもらうことをお願いして、医師もすぐに手配してくれ救急車で優大は運ばれた。

運ばれた病院は偶然にも優大が生まれた病院だった。

救急車の中では酸素を投与しながらも呼吸ができていたが、到着して処置が始まると、呼吸不全との診断がおりた。

刻々と悪い方へと急変していっているようだった。

次々と部屋を出入りするスタッフの緊迫した様子を呆然と見ていた私に、医師が深刻な表情で駆け寄ってきた。

「全身状態がとても悪いです。輸血と人工呼吸器の挿管の承諾をお願いしなければいけません。
挿管した後に抜管できるかはやってみないとわかりません。」

と突然言われた。

何でこんなことに、と心の中はめちゃくちゃに乱れていたが、その場で迷ってる時間はないとすぐにわかった私はそれを承諾した。

東京に戻っている夫に連絡をとり、そのことを報告した。

すぐにこちらに向かうとの返事だった。

何とか処置が終わり、部屋に通されるまでに何時間かかっただろうか。

私が優大に会えたのは、夫が東京から飛行機で到着し病院に駆けつけたのと同じ位の時刻だった。

私と夫が呼びかけると、優大はパッと眼を開けて穏やかな表情でこちらを見た。

優大はまた帰って来てくれた。

なんて、なんて強い子なんだと、尊敬と、愛情が沸き上がってくる。

きっと今回も乗り越えてくれる、そう信じていた。

だが、検査の結果が出ると、驚く様なことが起きていた。

状態としては、呼吸不全、多臓器不全と診断され、かなり容態は悪いとのことだった。

そしてその原因は、腎臓にあるらしかった。

今までに腎臓の異常がみつかったことはなかったが、それは避難の前から起っていたようだ。

しかも、腎臓の病気としてはかなり重篤である、急速進行性糸球体腎炎というものだった。

とにかくどんどん腎臓の炎症が進んでしまい、全身状態が悪くなることは避けられないことが告げられた。

病院は優大の掛かり付けである東京の子供専門病院とは違って総合病院だったので、人工呼吸器をつけてかなり重篤な状態でも基本的には一般病棟で小児科の医師が受け持って治療に当たって下さるとのことだった。

それは私達にとってはとても幸いなことだった。

病室の床で寝るとしても、24時間優大のそばにいられることが嬉しかった。

それに加え、震災の影響もあり夫も特別に在宅勤務が許され九州に留まることができたことは優大にとっても私にとっても大きな支えとなった。

こうして、まるで優大がこちらに連れてきてくれたかのような偶然とも思えないことが重なった。

容態は最悪だったけれど、家族が一心同体となって過ごす入院生活が始まった。

優大の容態は輸血をしたことで小康状態を保っていたが、いつ完全に腎不全になり尿が出なくなるかもわからないと医師に繰り返し言われた。

最悪の状況の場合の対処についても何度も話し合いがもたれた。

その度に、「おしっこが出なくなることは考えません。優大を信じて見守るだけです。」と言い続けた。

8歳の時に経験した危篤からの生還の体験で、私は大切なことを学んでいた。

現実を冷静に受け止めながらも、どんな時にも希望を持ち続けること。

そしてただ優大のことを信じて待つこと。

それしか私にできることはないと知っていた。

厳しい現実を深く受け止めたうえで、それでも信じることは本当に容易ではなかったが、私は心の真ん中にしっかりとその気持ちを持ち続けた。

 

日によっては尿量が増えたり、優大の表情にも余裕が見られたが、次第に全身状態が悪化していった。

呼吸器を外す目標もなかなか叶いそうになかった。

薬を大量に投与しても腎臓の値が改善してくる気配がなく、検査のデータを見せられることが苦痛だった。

尿量が減り身体がパンパンに浮腫みどんどん辛くなってくる。

それでも、優大は何とか全身のバランスをとり一日一日を乗り越えていく。

挿管していても呼吸をしようと自発呼吸をし続けた。

優大の生命力は常識を遥かに超えて強い。

そんな非日常の過酷な毎日であったのに、病室での生活は不思議と穏やかで、笑顔がなくなることがなかった。

家族の心がひとつに集まってまるで自宅にいるような安心の空気が流れた。

優大の命を囲んで愛が溢れているのを感じて過ごした。

それでも、時折葛藤している夫の心中がよくわかった。

受け入れること、信じてただ見守ることを伝え合うことで、私達は何とか平安の中にとどまることができたのだった。

優大の命の灯はもう本当に尽きてしまうのかもしれない、私は心の奥で感じ始めていた。

それほどに命の総仕上げともいうように、本当に苦しい状態でありながら優大は静かに愛を放ちながらそこにいてくれた。

後半へつづく。。

 

About Stories 物語の前に

Story1
妻編:「赤ちゃんにノウガナイ?」
夫編:「幸せな若夫婦への突然の報せ」

Story2
妻編:「悲しみと隣りあわせの幸せ」
夫編:「試練、負けるもんか」

Story3
妻編:「この腕に抱きたい」誕生へ
夫編:「産むのはおかしいことですか?」

Story4
妻編:「天からの贈り物」
夫編:「想像できなかった現実」

Story5
妻編:「発作との日々の始まり」
夫編:「いざ広州へ」

Story6
妻編:「中国で重度障がい児を育てる」
夫編:「いよいよ!家族揃っての駐在生活。。」

Story7
妻編:「必死だった日々も。。」
夫編:「妻任せの障がい児子育て」

Story8
妻編:「これでいい。だいじょうぶ。」
夫編:「なかよし学級で教えてもらったこと」

Story9
妻編:「失うことの恐怖。。希望へ」
夫編:「生後5年目、初めての介護育児」

Story 10
妻編:「優大チームの介護子育て」
夫編:「優大5歳、お兄ちゃんになる」

Story 11
妻編:「生きていることの奇跡」
夫編:「8歳の試練」

Story 12
妻編:「当たり前でない日々、10年」
夫編:「命は必ず尽きる、ライフワークは何か?」

Story 13
妻編:「命の最期のしごと 前編」
夫編:「そして、九州へ」

Story 14
妻編:「命の最期のしごと 後編」
夫編:「命日と誕生日、優大の旅立ち」

Story 15
妻編:「すべてが贈り物」
夫編:「3人家族、新しい生活」

Last story
妻編:「生きて!」ママへ、そしてかけがえのないあなたへのメッセージ
夫編:「4人で5人家族、優大学校からの学び」