優大の発作はとても重く辛いものでした。

それは本人にとっては勿論、介護をする母親にとっても。

ただ見守るしかできない、という辛さは、特に自分の血を分けて肉体を作った母親には、父親には分かり得ない苦しみがあったのだと思います。

僕は結局、一番発作が酷いこの状態を、この目で見る事はありませんでした。

でも、国際電話があると
「発作が落ち着いたら広州に来て欲しい。家族は揃っていた方が良いし、自分にも何か手伝えるかも。」
といつも言っていました。

だから、漸くして、効き目のある抗てんかん薬が見つかり、発作が止まったと聞いた時、
「よし、これで一緒に暮らせる!」と何の迷いも、不安もなく、ただただ嬉しく思いました。

いよいよ家族が赴任する日、僕は関西空港まで迎えに行きました。

関西空港横のJALホテルで落ち合うと、久しぶりに会う優大はプクプク太ってとても可愛い!

妻はちょっとナーバスな感じでしたが、僕は喜びでいっぱいでした。

皆で夕食を食べ部屋に戻りました。その直後に事件が起きました。

ベビーベッドの上にいる優大を見ていると、突然、眼の動きが
止まりました。

暫くすると、両腕を上にあげ、全身を激しく震えさせながら、顔は右側に向け硬直してゆきます。

初めて見る発作でした。

顔はあっという間に、ま紫に変色し、優大は息を止めたまま発作を続けます。

「やっぱり発作が出ちゃった…疲れ過ぎちゃったかな。」

動揺してパニックになる僕とは違い、今まで3カ月以上見守ってきた慣れからか、少しだけ冷静に見ていられる妻。

でも、彼女の顔には落胆と悲しみが混じった疲れた表情が出ていました。

暫くして発作は治まりました。僕は内心ホッとしました。

正直、それは発作が治まった事への安堵という事だけではありません。

無事に家族を連れて、広州に赴任できるという気持ちの方が大きかった。

「わざわざ交通費を払ってここまで来て、連れて行かないという選択肢はない。」

「既に家財道具も船便で発送済みだし、会社の手続きを元に戻す事もできない。」

どんな事があろうと、俺は駐在員として、家族を広州に連れてゆくのだというある種の脅迫感だったかもしれません。
誰に強制されたものでもないのに…。

広州での生活は広東国際大酒店という五つ星ホテルのアパート棟で始まりました。

家族着任後に先ずやったのは、優大のかかりつけの病院を探す事。

日本の病院からもらった英語の紹介状を携え、有名な香港の病院に行きました。

ここでの一つのラッキーは、香港はヨーロッパルールが広く適応されている事もあり、日本以上に沢山の種類の抗てんかん薬が認可されていた事。

紹介状を片手に、片言の英語で優大の症状を説明すると、「それならtopiramateがきっと効く」と診断と処方をしてくれました。

更に、その薬は広東省でも処方可能である事が分かりました。

後日改めて、医療サービス会社の通訳さんと、広州市内にある病院で診察を受ける段取りまで決まりました。

※ちなみに、優大は生涯このtopiramateを服用しましたが、2000年当時は勿論、2005年くらいまで、日本では認可待ちで使用できませんでした。

広州の病院での初診の日、僕も仕事を途中で抜け、家族をタクシーで迎えて病院に向かいました。

抗てんかん薬も処方してもらえるし、何かあった時はすぐに診てもらえる。

不安を抱えた駐在スタートに、光明が見えたような気がしました。

中国人の女医さんの診察が始まり、通訳さんを通して問診が始まります。

「いつからこの症状?」
「発作はどれくらい続く?」
「1日に何回発作がある?」

女医さんは次第に険しい表情になります。
そして一言、「私にこの子をどうしろというの?あなた達は何故こんな子を産んだの?」

通訳さんは悪気もなく日本語に訳します。

僕も中国語は分かるので、慌てて通訳を止めさせました。

想像はある程度していたもののショックでした。

僕がというよりも、妻にそういうやり取りを聞かせてしまった事に大きな罪悪感を感じました。

女医さんも通訳さんも悪気はないんです。

一人っ子政策の中国において、障がいがあると事前に分かれば「産まない」というのは常識の範疇。

他国の文化や価値観を否定する事は誰にもできません。

ただ、我々の価値観、「普通の子と同じように育てて下さい」と言ってくれた九州の先生の言葉とは余りにもかけ離れている。

受け入れる事ができませんでした。

「てんかんのコントロールの為に薬を処方して、定期的に診察だけして下さい。」
ただそれだけをお願いして、重い気持ちで病院を後にしました。

僕の仕事は調味料を現地の人達に販売する仕事です。
1日に数回、地元の人達が日常的に使う市場に行商に行きます。

よく見ると、市場の入り口の所に障がいのある子供が寝かされて、というか、転がされている事がありました。

首には札がかけられていて、
「私は障がいがあり貧しい。どうかお金を恵んで下さい。」
そんな意味の事が書かれています。

皆、その子に一目もくれず、日々の商売や生活を営んでいます。

仕事中ではあるものの、この光景を見ると優大を思い起こさずにはいられません。

ただ悲しく、胸が痛い。どうしようもない辛さだけがそこにはあります。

中国で障がい児を育てるということ、それは想像すらしていなかった精神的負荷の大きいものでした。

※広州市内の喧騒を離れた庭園にて。ベビーカーの中まで覗いてくる人がいたり、なかなか完全には落ち着けませんでしたが…

 

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優大とわたしたちの10年間の物語 目次

About Stories 「物語の前に」

Story1
妻編:「赤ちゃんにノウガナイ?」
夫編:「幸せな若夫婦への突然の報せ」

Story2
妻編:「悲しみと隣りあわせの幸せ」
夫編:「試練、負けるもんか」

Story3
妻編:「この腕に抱きたい」誕生へ
夫編:「産むのはおかしいことですか?」

Story4
妻編:「天からの贈り物」
夫編:「想像できなかった現実」

Story5
妻編:「発作との日々の始まり」
夫編:「いざ広州へ」

Story6
妻編:「中国で重度障がい児を育てる」
夫編:「いよいよ!家族揃っての駐在生活。。」

Story7
妻編:「必死だった日々も。。」
夫編:「妻任せの障がい児子育て」

Story8
妻編:「これでいい。だいじょうぶ。」
夫編:「なかよし学級で教えてもらったこと」

Story9
妻編:「失うことの恐怖。。希望へ」
夫編:「生後5年目、初めての介護育児」

Story 10
妻編:「優大チームの介護子育て」
夫編:「優大5歳、お兄ちゃんになる」

Story 11
妻編:「生きていることの奇跡」
夫編:「8歳の試練」

Story 12
妻編:「当たり前でない日々、10年」
夫編:「命は必ず尽きる、ライフワークは何か?」

Story 13
妻編:「命の最期のしごと 前編」
夫編:「そして、九州へ」

Story 14
妻編:「命の最期のしごと 後編」
夫編:「命日と誕生日、優大の旅立ち」

Story 15
妻編:「すべてが贈り物」
夫編:「3人家族、新しい生活」

Last story
妻編:「生きて!」ママへ、そしてかけがえのないあなたへのメッセージ
夫編:「4人で5人家族、優大学校からの学び」