大変な思いで始まった僕らの広州生活。妻を少しでも楽しませようと特に気を遣ったのは食事でした。

広州は「食は広州に在り」で有名な美食の街です。

仕事柄、レストラン関係の情報も多く持っていたので、美味しいお店を沢山知っていました。

飲茶、北京ダック、フカヒレスープ、魚の清蒸し、マンゴープリン。

休日の昼だけでなく、平日の夜も家族を連れて美味しい物を食べ歩いていました。

というのも、当時僕は週の半分は営業マンに同行して各地に出張していました。

加えて接待やら営業マンとの懇親やらで平日はほとんど家にいません。

せめてもの罪滅ぼしと、夫婦ともに美味しいものを食べる事が大好きなので休日の食事を充実させよう、そう思っていました。

広州に来て暫くして妻が激しい乳腺炎になりました。

例の病院の医師が「乳房を切る」と言うので、それはちょっと待てという事で日本に緊急帰国して乳腺炎の治療をする事になりました。

無事に治療を終えて優大と一緒に広州に戻ってきたのも束の間。

ある日、「優ちゃん、水頭症が進んでいて手術が必要みたい。」

日本の病院から緊急連絡が入りました。

水無脳症の場合、大脳皮質が殆どないので頭の中は髄液で満たされている事になります。

余分な髄液が吸収されない為、放っておくと髄液がどんどんとたまり頭蓋骨に圧力をかけ頭は大きく、眼も前に飛び出してきます。

確かに、眼は生まれつき大きかったけど、最近やけに飛び出しているようにも見える。

何より残っている脳幹部を圧迫すると命に関わります。

それは一大事!すぐにもう一度緊急帰国をしてシャント形成術※を受ける事になりました。

※脳室から腹腔までチューブを通し、余分な髄液を排出する為の
通路を作る手術で、水頭症対策では一般的な物。

手術を終えて優大の反応は劇的に改善されました。

キョロキョロと眼を動かし、呼びかけると「ふぅーん!」と返事をします。

身体の動きも感情表現も、今までよりスムーズになり毎日の反応を見る事は僕の楽しみでもありました。

一方、その頃からより一層仕事に邁進するようになったのも事実です。

自分の活動範囲を既存エリアでの販売だけでなく新規エリア拡大まで大きく広げました。

エリア拡大=売り上げ拡大に直結します。

ガンガン出張して覚えたての広東語でバリバリ商談して新規開拓をする。

そんな仕事が楽しくて仕方がありませんでした。

駐在して2年も経った頃、毎週末の家庭教師の甲斐もあり広東語もかなり喋れるようになっていました。

「お前本当に日本人?スゲーな広東語が中国人よりも上手だよ!」

なんて、問屋の社長さんやレストランのシェフからお褒めの言葉を頂き、仕事も絶好調でした。

その勢いに乗って深セン市に新しい支店を作る事も手掛けました。

現地セールスマンの採用から駐在するセールスマンの宿探しや事務所探しまで、1週間泊まり込み出張などかなりの頻度で150キロ離れた深センに行っていました。

最初に日本と広州で離れて暮らしていた時、毎日の国際電話やFAXなど頻繁にやり取りしていた僕達。

物理的な距離が近くなった分、心理的な距離は離れていたかもしれません。

「近くにいるから大丈夫」それを免罪符に、気にかける、関心を持つ事も忘れていたのか。

思い返しても、この頃彼女と何を話したか、優大がどんな感じだったかあまり記憶がないのです…。

勿論、仕事上の出来事はかなり鮮明に覚えています。

一つだけ覚えているのは、妻が優大をお風呂に入れ、洗い終わった後僕が受け取るという時に、僕があまりの疲れから、ソファーで寝てしまうという事がありました。

お風呂から叫ぶ妻の声、遠くで聞こえる気がするけど…。

気がつくと、びしょ濡れで裸のままで、優大を抱っこし仁王立ちで妻が目の前に立っていました。

怒りと失望と悲しみの溢れた眼をしていました。

中国の住宅の風呂はバスタブにシャワーがついているだけで、脱衣場や洗い場もなく、優大を寝かせておけるスペースもありません。

家にいる時は、お風呂の手伝いだけはするというのは決めごとでした。勿論その瞬間は申し訳ないと思うんです。

でも、行動は変わらない。

1日に3回抗てんかん薬を飲ませる事。

嚥下が苦手でゆっくりしか食べられない優大に辛抱強く離乳食をあげること。

自分の力だけではまぶたを閉じられない彼の目を保護する為に、眠ったのを確認して低刺激性の絆創膏をそっと貼ること。

優大の命を繋ぐ為に必要なこの3つのルーティーンでさえ僕は全てを妻に任せ切っていました。

そして、僕の仕事は駐在員。家事育児は妻の仕事。

僕の中にあったこの固定観念は、こちらが意識しないうちにどんどん妻を追い詰めてゆきました。

仕事に真剣にのめり込むほど育児からは距離をおいてゆく。

それは決して、意図的にやっている事ではなく、家族を想う気持ちが薄れたわけでもないのです。

優大は相変わらず可愛いし大切に育てたいと思っている。

ただ、仕事が楽しくて仕方なく、自分のエネルギーの全てが結果的に、仕事だけに向いていたんです。

だから「1日1回で良いから優大の薬をお願い!」と懇願された時も、

「それ、そんなに大変?」とその言葉の裏側に気づけませんでした。

彼女は自分が一人で優大の命を預かっている重責が辛くて、同じ親である僕にその事を分担して欲しくて大事な大事な薬の事を頼んだのでした。

その事を知ったのはそれから数年経ってからです。

ある日、「もう限界だから日本に帰らせて欲しい」と言われた時、

正直、「マジで?そんななの!?」とかなり驚きました。

鏡を見れないほどのストレスがあったなんて全く気づけませんでした。

その事も数年経って打ち明けられました。

本当は僕の育児への無関心、命を任せきりにしている事が原因だったのに当時の僕は、

「俺はあと1年だけ駐在生活を続けさせて欲しい。」

「もう少しで手掛けている事が形になるんだ」

と、単身赴任の意向を伝えました。

実家に戻れば義母も育児を手伝ってくれる。
俺がいなくてもなんとかなる。

あと1年あれば満足のゆく成果を残せる。

その時はそのぐらいの気持ちしか持てない感性の持ち主でした。

こうして3年に及ぶ家族帯同での駐在生活が終わり、単身赴任駐在が始まりました。

※シャント形成術直後の優大。

スッキリした顔で、眼をキョロキョロさせ、目線もきっちり合うようになりました。

 

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優大とわたしたちの10年間の物語 目次

About Stories 「物語の前に」

Story1
妻編:「赤ちゃんにノウガナイ?」
夫編:「幸せな若夫婦への突然の報せ」

Story2
妻編:「悲しみと隣りあわせの幸せ」
夫編:「試練、負けるもんか」

Story3
妻編:「この腕に抱きたい」誕生へ
夫編:「産むのはおかしいことですか?」

Story4
妻編:「天からの贈り物」
夫編:「想像できなかった現実」

Story5
妻編:「発作との日々の始まり」
夫編:「いざ広州へ」

Story6
妻編:「中国で重度障がい児を育てる」
夫編:「いよいよ!家族揃っての駐在生活。。」

Story7
妻編:「必死だった日々も。。」
夫編:「妻任せの障がい児子育て」

Story8
妻編:「これでいい。だいじょうぶ。」
夫編:「なかよし学級で教えてもらったこと」

Story9
妻編:「失うことの恐怖。。希望へ」
夫編:「生後5年目、初めての介護育児」

Story 10
妻編:「優大チームの介護子育て」
夫編:「優大5歳、お兄ちゃんになる」

Story 11
妻編:「生きていることの奇跡」
夫編:「8歳の試練」

Story 12
妻編:「当たり前でない日々、10年」
夫編:「命は必ず尽きる、ライフワークは何か?」

Story 13
妻編:「命の最期のしごと 前編」
夫編:「そして、九州へ」

Story 14
妻編:「命の最期のしごと 後編」
夫編:「命日と誕生日、優大の旅立ち」

Story 15
妻編:「すべてが贈り物」
夫編:「3人家族、新しい生活」

Last story
妻編:「生きて!」ママへ、そしてかけがえのないあなたへのメッセージ
夫編:「4人で5人家族、優大学校からの学び」